豊田耕三(アイリッシュ・フルート)、関口将史(チェロ), 参加費:¥1000 以後、日本の反戦闘争は激しさを増し、なかでもジャテックの活動は、米軍基地からの反戦米兵の脱走支援、さらには基地内での叛乱をうながす運動へ発展していきます。その後、日本国内のほぼすべての米軍主要基地において、反戦地下新聞が発行されるようになり、無許可離隊や命令拒否が続発するという事態が生まれます。それが世界最強を誇る合衆国の軍隊を内部から弱体化させ、1975年のサイゴン陥落、ベトナム戦争の終結に向かう遠因となったのでした。 ベトナム民主共和国 出演:詩と音楽のコラボレーション集団VOICE SPACE (, 「米地上軍が出撃 米大統領が発表 カンボジア領内」『朝日新聞』昭和45年(1975年)5月1日夕刊、3版、1面. ★ほら吹きクレイ ★黒人民族主義と公民権運動 ★徴兵忌避とベトナム反戦運動 ★愛と平和のカウンターカルチャー ★アメリカ人の青春グラフィティ (2016年)6月3日に、モハメド・アリが74歳で亡くなった。たいへんな騒ぎで、日本のニュースでも地元ケンタッキー州の葬儀の模様が報道された。プロレスのヒール(悪役)さながらに憎まれていたアリが、アメリカの英雄に神格化されたのはなぜだろう。 http://voicespace.wix.com/voicespace ヴォー・グエン・ザップ ベトナム全国no.1を決める野球大会を開催したい! 少しづつ野球が普及し始めたここベトナムでベトナム人チームの全国大会を開催したく思います。 - クラウドファンディング readyfor 戦車闘争(2020年12月12日公開)の映画情報、上映スケジュール、予告編を紹介。ベトナム戦地へ向かう米軍戦車を一般市民が阻止した事件の真実に迫るドキュメンタリー また、会期中の6月11日(土)、「第4回10・8山﨑博昭プロジェクト東京講演会」を、ギャラリー近くの「文京区不忍通り ふれあい館」で開催します。, 本展覧会は今秋(時期未定)、京都精華大学との共催で、同大学ギャラリースペースでも開催します。会期中に、同大学初代学長を記念した「岡本清一記念講座」で、山本義隆講演会があります(詳細は後日発表)。, 6月は国会南通用門で22歳の樺美智子さんが亡くなられた月、10月は18歳の弟が羽田で亡くなった月。 〒104-0061 東京都中央区銀座8-10-6 銀座MEビル3F 東京銀座総合法律事務所内 グエン・カオ・キ "The Third Indochina Conflict". 「決して、音を立ててはいけない」というルールのもと、懸命に生き延びる家族に焦点をあてた2018年度No.1ヒットホラー映画『クワイエット・プレイス』に続編が登場。想像のつかない脅威が待ち受ける新たな地を舞台に、スケールアップした“沈黙”とスケールで物語を繰り広げる。主演は前作同様エ … 第二次世界大戦末期、フランス領インドシナの凄惨な戦場の実態と、傷ついたひとりの兵士の魂に迫った戦争映画『この世の果て、数多(あまた)の終焉』(原題:les confins du monde/英題:to the ends of the world)が2020年8月15日(金)より全国順次公開されることが決定した。 「アメリカ20世紀史」229P 秋元英一・菅英輝 著 東京大学出版 2003年10月発行, ウイルソン・センター 「Why Did South Korea Get Involved in Vietnam?」, 「亡命呼びかけのビラを発見」『朝日新聞』昭和42年10月28日朝刊、12版、14面, 「米軍逃亡兵が麻薬売買 サイゴン ヤミ市へ横流しも」『朝日新聞』昭和42年10月28日朝刊、12版、14面, Dmitry Mosyakov, “The Khmer Rouge and the Vietnamese Communists: A History of Their Relations as Told in the Soviet Archives,” in Susan E. Cook, ed., Genocide in Cambodia and Rwanda (Yale Genocide Studies Program Monograph Series No. 『cbc news(cbcニュース)』は、最新のニュースを動画でお伝えするcbcテレビのニュースサイトです。東海地方(愛知・三重・岐阜)のローカルニュースをメインにお伝えします。 日時:2016年6月11日(土) 18:30開場、19:00開演 (FAX) 03-3573-7189   (E-mail) monument108@gmail.com. グエン・タン・ズン 1967年10月8日、京都大学文学部一年生の山崎博昭さんは、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を阻止しようとした第一次羽田闘争で死去した。享年18歳。警察や機動隊との衝突で、学生側に死者が出たのは60年安保闘争の東大生、樺美智子さん以来二人目ということもあり、衝撃が大きかった。 グエン・タイ・ホック 砂川基地拡張反対闘争の記録写真と資料/ベ平連とジャテックの活動記録/日本各地の米軍基地内での反戦地下新聞・機関誌/各地の市民運動の記録/第一次羽田闘争(1967年10月8日)の連続記録写真(撮影・北井一夫)/王子野戦病院反対闘争・佐世保闘争・三里塚闘争の記録写真/ポスター(粟津潔、他)、関連書籍、雑誌、新聞、写真集etc. William S. Turley, Jeffrey Race (1980). ベトナム国 主催:10・8山﨑博昭プロジェクト/協力:60年代研究会(代表・山本義隆), 【企画趣旨】 Powered by WordPress & YamazakiHiroakiProject Theme by Studio Ryoma co.,ltd. 主催:10・8山﨑博昭プロジェクト U Thant Speaks No Evil on Czech Crisis. ゴ・ディン・ジエム ベトナム共和国 ホー・チ・ミン レ・ズアン 〒104-0061 東京都中央区銀座8-10-6 銀座MEビル3F 東京銀座総合法律事務所内, http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/shinobazu.html, №6(2019年4月30日):趣意書 第2ステージに向けて、ご挨拶/山﨑建夫、ベトナム報告、月命日(毎月8日)墓参のご案内、2019年スケジュール、賛同金(年会費)のお願い他, №5(2018年3月25日):ご挨拶/山﨑建夫、50周年記念行事の報告、関西集会の報告、歴博展を訪ねて、今後の展開 他, №4(2017年6月17日):ご挨拶/山﨑建夫、三つの事業計画の進捗状況報告、ベトナム・ホーチミン市「戦争証跡博物館」での展示日程 他, №3(2016年10月8日):ベトナム・ホーチミン市での「ベトナム反戦闘争」展、「モニュメント」建立地の経過について 他, №2(2016年4月30日):6月展覧会&講演会のお知らせ、賛同金の公募目標額について 他, 山﨑博昭君の死因について ――警察当局の世論操作を糾弾する /小長井 良浩 (1967年12月24日). ゴ・ディン・ヌー 「きょうから本格論戦 「不況」などを中心に B52沖縄発進問題も」『日本経済新聞』昭和40年8月2日1面, 『ベトナム現代短編集 1』 加藤栄訳、大同生命国際文化基金〈アジアの現代文芸〉、1995年, http://www.worldtimes.co.jp/world/korea/10522.html, 玉居子精宏「ベトナム秘史に生きる日本人:第2回:植民地政府を解体した一夜の奇襲作戦」, 玉居子精宏「ベトナム秘史に生きる日本人:第三回:ホー・チ・ミンの軍隊で戦った日本人」, http://www.musashi.jp/~togo/articles/ベトナム戦争と東アジアの経済成長%20working%20paper.pdf, 憲法のある風景:公布70年の今/1 9条に迷い救われ 被爆、渡米、ベトナム戦、脱走 日米の間に生きた, “President Barack Obama's Inaugural Address”, http://www.whitehouse.gov/blog/inaugural-address/, http://japan.hani.co.kr/arti/international/20445.html, http://japan.hani.co.kr/arti/politics/23079.html, ベトナム戦争に派兵された韓国兵士の女性暴行「韓国政府に謝罪要求」英国で団体設立、混血児問題で像制作, NHKスペシャル 戦争を記録した男たち ~ファインダーの中のベトナム戦争~ - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ベトナム戦争&oldid=81618889, 1966年1月1日から4日にかけてブン・トアフラとヨビン・ホアフラ地方では市民の財産を略奪したり、, 1966年3月26日から28日にかけて韓国軍はビンディン省の数千の農家と寺院を炎上させ、老若とわず女性を集団強姦した, 同1966年10月には共同作戦中の米軍と韓国軍(猛虎師団、青龍師団、白馬師団等)が、ベトナム市民の結婚の行列を襲撃し、花嫁を含め7人の女性を強姦し、宝石を奪い、3人の女性を川の中へ投げ込む暴行事件が発生, 第314爆撃団/第19爆撃群、第29爆撃群、第39爆撃群、第330爆撃群/SC-47装備, 第1特殊作戦飛行隊/A-1Eスカイレイダー、FC-47ガンシップ、A-26インベイダー、T-28トロージャン装備, 第163海兵中型ティルトローター戦隊/H-34、C-130、A-1、AC-47装備, 第1海兵戦術電子戦訓練飛行隊/RF-8Aクルセイダー、EA-6Aエレクトリック・イントルーダー、RF-4BファントムII装備, 南ベトナムの元司法大臣のチュン・ニュー・タン(チュオン・ニュ・タン)は『裏切られたベトナム革命――チュン・ニュー・タンの証言』(友田錫著、中央公論社)、『ベトコン・メモリアール――解放された祖国を追われて』(吉本晋一郎訳、原書房)でサイゴン陥落から自ら亡命するまでの実態を告白している。, 早乙女勝元『枯れ葉剤とガーちゃん (写真絵本 物語ベトナムに生きて) 』草の根出版会 2006年, ロバート・マクナマラ『果てしなき論争 ベトナム戦争の悲劇を繰り返さないために』共同通信社、2003年. 巨匠フランシス・フォード・コッポラが、ベトナム戦争の闇をcgなしの壮大なスケールで描いた戦争大作『地獄の黙示録』。製作から40年、自分の好きなバージョンを作りたいと考えたコッポラは、1979年 … 「侵略戦争の銃は持たない。反戦の闘いには命をかける」。交わした数少ない弟の言葉の一つです。 ファン・ボイ・チャウ 中越国境紛争 講師:和田春樹(元大泉市民の集い代表。歴史家。東京大学名誉教授), 第2部/音楽ライブ「明日」 ベトナム戦争は戦争布告がないまま始まり、1975年に終結しました。この戦争をめぐって世界各国で反戦運動が拡がりました。本展は、当時の日本でのベトナム反戦闘争の軌跡を写真と資料で紹介し、現在から未来へつなげようとする試みです。 レ・ドゥク・ト お問い合わせ・予約:E-mail: monument108@gmail.com, ◎参加ご希望の方は、「参加お申し込み」ページからお願いします。 1, 2004), p54ff. (定員になり次第、締め切りとさせていただきます), 10・8 山﨑博昭プロジェクト 事務局 グエン・ミン・チェット Foreign Policy (38): 92–116. 1965年、米軍による北ベトナムへの空爆開始と南ベトナムへの上陸とともに、ベトナム戦争は本格化しました。ほぼ同時に日本では、ベ平連、三派全学連、反戦青年委員会、高校生運動が誕生し、反戦闘争が活発化しました。翌1966年には、立川基地拡張に反対して、砂川町の農民と全学連・反戦青年委員会の共闘が形成され、農民と学生と労働者との共闘体制は、その後の三里塚闘争にも引き継がれていきます。 ベトナム戦争は戦争布告がないまま始まり、1975年に終結しました。この戦争をめぐって世界各国で反戦運動が拡がりました。本展は、当時の日本でのベトナム反戦闘争の軌跡を写真と資料で紹介し、現在から未来へつなげようとする試みです。 会場:ギャラリーTEN (東京都台東区谷中2-4-2 電話03- 3821-1490) 今週の「おとな向け映画ガイド」アカデミー賞有力候補作がこんなにも!ー『Mank/マンク』『ミッドナイト・スカイ』など劇場公開されたNetflixオリジナル4作品をオススメ。ぴあ編集部 坂口英明20/1… マダム・ヌー 会場:文京区不忍通りふれあい館(東京都文京区根津2-20-7 電話03-3822-0040) *会場では、会期中、毎夕(時間未定)、1960年代から70年代の反戦闘争の記録映画の上映会を開催します。談論風発、討論歓迎。こぞってご参加ください。, 戦争に反対する講演と音楽の夕べ ドキュメンタリー映画好きの人必見!上映中の作品から上映終了している作品まで、ドキュメンタリー映画を一覧でご紹介。観たいドキュメンタリージャンルの作品がきっと見つかります!上映スケジュールや映画館までの行き方を調べることもできます。 ドイモイ 越南民国臨時政府, 人物 1945年11月、インドシナ共産党を偽装解散させる[44]。インドシナ共産党は党員を「民族の前衛戦士」となづけ、さらに民族の利益を党の利益よりも優先させることを特徴としていた[45]。, 1946年2月28日、フランスは「中国・フランス協定」を結び、中華民国が要求していたハイフォン港自由化などを中国軍の撤退を条件に受け入れる[46]。またフランス政府は、ホー・チ・ミンらベトナム民主共和国を「フランス連合」の一員としての独立を認めると通告するが、ベトミンは完全独立を要求し、交渉が持続されていた[46]。そうしたなか、同年3月5日、連合軍東南アジア軍司令部は、南部インドシナが連合軍統轄下よりフランス軍管理下に移行したことを発表、フランス軍は北緯16度線以南はフランス当局が接収すると声明を発表する[46]。自由フランス軍のフィリップ・ルクレール将軍指揮下の第2機甲師団がサイゴンに入りインドシナ南部のコーチシナを制圧、3月6日にフランス軍はハイフォン港に上陸し、3月18日にはハノイに入城した[46]。フランス軍は1946年5月までにラオスにも進駐し、インドシナ一帯を占領する。1946年3月には制圧したコーチシナでフランスは傀儡国家であるコーチシナ共和国を成立させ、グエン・バン・ティンを首班に置いた。こうしたフランス軍の軍事行動に対してホー・チ・ミンらは強く抗議、フランスはインドシナ連邦を置くことであからさまな植民地経営をやめ、事態の解決を図ろうとするが、これでは植民地時代と同じものであり、許容出来ないとして、1946年9月、ベトナム民主共和国側との交渉は決裂した。, ベトミンはソ連と中国共産党からの軍事支援を受けるまでは装備も乏しかったが、1946年4月には独自の軍士官学校を二校設立した。一校は北部ソンタイにあり、教官は日本軍に追われて以来ベトミンに合流していたフランスインドシナ軍の下級将校であった[47]。もう一校は中部沿岸のクァンガイ陸軍士官学校で校長は中国共産党のグエン・ソンだが、教官は元日本軍の士官や下士官であった[47][48]。このような残留日本兵は「新ベトナム人」とよばれた[49][50]。日本軍インドシナ駐屯軍参謀の井川省少佐はベトナム名レ・チ・ゴといい、ベトミンに武器や壕の掘り方、戦闘指揮の方法、夜間戦闘訓練などの技術、戦術などを提供した。また井川参謀の部下の青年将校中原光信はベトナム名をヴェト・ミン・ゴックといい、第二大隊教官としてベトミンに協力した[47]。ほかにも石井卓雄、谷本喜久男(第一大隊教官)、猪狩和正(第三大隊教官)、加茂徳治(第四大隊教官)らがいた[51][52]。 スプラトリー諸島海戦, 「国家」 Foreign Affairs (Fall 1986). 二国間援助のトップドナーである日本に対するベトナム側の期待も益々高まっています。ベトナムは「社会経済開発10か年戦略(2011-2020)」において、制度整備、人材育成、インフラ開発を重点分野と位置づけています。 戦争できる国へ大きく舵を切った日本で、そうはさせない運動を大きく展開する時に、60~70年代の反戦運動を直視し、新たな糧とすることは大いに意義のあることだと思います。 バオ・ダイ Dennen, Leon (August 12, 1968). ベトナム戦争. ベトナムでの米軍の軍事行動のエスカレーションに応じて、米軍の後方基地としての日本の役割は飛躍的に増大。それに並行して、反戦闘争は日本の戦争加担という事実と向きあっていくことになります。とりわけ、ベトナム戦争への加害者であることの自覚を日本人にうながしたのが、1967年10月8日の佐藤栄作首相の南ベトナムへの訪問強行でした。サイゴンの米国傀儡政権への政治的な梃子入れを目的としたこの訪問を阻止するために、学生・労働者は羽田で闘い、この闘いへの凶暴な弾圧のなかで、京大生・山﨑博昭君(18歳)が死亡しました。 映画ファン必見!2020年“戦争”をテーマにした映画が続々公開(シネマズ plus) 2020年、戦争映画が熱い注目を集めている。アカデミー賞®《脚本賞》を受賞したヒューマンドラマ『ジョジョ・ラビット』、 … 本展「ベトナム反戦闘争とその時代」は、山﨑博昭君追悼とともに、かつての時代の一端を残存資料によって再現しようとするものですが、それはたんなる追憶にとどまらず、その時代の経験を後続の世代に継承させたいと願っての企画です。. http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/shinobazu.html, 第1部/講演:「市民が戦争と闘った時代」 ベトナムの共産化を阻止する口実でアメリカは1965年から本格的に軍事介入して南ベトナム軍を支援、北爆を行い地上軍を投入、北ベトナム軍・南ベトナム解放戦線との戦闘を開始した。 グエン・フー・チョン, ベトナム戦争(ベトナムせんそう、越: Chiến tranh Việt Nam、中: 越南戰爭、英: Vietnam War)は、インドシナ戦争後に南北に分裂したベトナムで発生した戦争の総称。, 第二次インドシナ戦争(だいにじインドシナせんそう、英: Second Indochina War)とも。, 旧北ベトナム、現在のベトナム社会主義共和国では米国戦争(べいこくせんそう、ベトナム語:Chiến tranh Mỹ quốc/戰爭美國)、対米抗戦(たいべいこうせん、ベトナム語:Kháng chiến chống Mỹ/抗戰挵美)、抗米救国戦争(こうべいきゅうこくせんそう、ベトナム語:Kháng chiến chống Mỹ cứu nước/抗戰挵美救渃)などと呼ばれる[5]。, ベトナム戦争は宣戦布告が行われなかったため、戦争がいつ開始されたかについては諸説ある。, この戦争は、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との間に、第二次世界大戦後に生じた対立(いわゆる冷戦)を背景とした代理戦争でもあった。, ホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)側は、ベトナム共和国(南ベトナム)を「アメリカ合衆国の傀儡国家」と規定し、共産主義イデオロギーを背景に、ベトナム人による南北ベトナム統一独立国家の建国を求めるナショナリズムに基づく植民地解放戦争であるとした。, 第一次インドシナ戦争終結後も、北ベトナムが支援する南ベトナム解放民族戦線(アメリカ合衆国民はベトコンと呼称)が南ベトナムで武力を用いた反政府活動を続けたため、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー政権は少数のアメリカ軍人からなる「軍事顧問団」を南ベトナムに派遣した。その後、ジョン・F・ケネディ大統領は軍事顧問団の規模を増大させることで事実上の正規軍の派兵を進めた。リンドン・ジョンソン大統領は大規模な正規軍を送ってベトナム戦争に積極的に介入した。, アメリカ、韓国の他にSEATO(東南アジア条約機構)の主要構成国であるタイ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドが南ベトナムに派兵した。ソビエト連邦や中華人民共和国は、北ベトナムに対して軍事物資支援を行うとともに多数の軍事顧問団を派遣したが、アメリカやSEATO諸国のように前面に出る形での参戦は行わなかった。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は飛行大隊を派遣し、ハノイの防空を支援した。, ベトナム戦争を巡って世界各国で大規模な反戦運動が発生し、社会に大きな影響を与えた。1973年のパリ協定を経てリチャード・ニクソン大統領は派遣したアメリカ軍を撤退させた。その後も北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線と南ベトナムとの戦闘は続き、1975年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は終戦した。, 19世紀にベトナム(阮朝)はフランス帝国の植民地となる。7月王政時代のフランス帝国(フランス植民地帝国)国王ルイ=フィリップ1世は、1834年にアルジェリアを併合し、1838年にはメキシコで菓子戦争を起こして介入、1844年には阿片戦争で敗れた清と黄埔条約を締結した。そして、1847年4月、ベトナムの植民地化を図り、フランス軍艦によるダナン砲撃によるインドシナ侵略を始める。, フランス第二帝政のナポレオン3世も東方へのフランス勢力拡大に熱心で、フランス海軍司令官に大幅な自由裁量権を与え、アジア太平洋地域では強硬な帝国主義政策が遂行された[6]。太平洋では、ニュージーランドを併合したイギリスへの対抗、またオーストラリアとの貿易の拠点および犯罪者の流刑地にする目論見で1853年にニューカレドニアを併合した[7][8]。, 1856年10月にイギリスがアロー号事件を口実に清へ出兵すると、フランスも清の江西省でフランス人宣教師のオーギュスト・シャプドレーヌが殺害された事件を口実として清への出兵を開始し、英仏は協力してアロー戦争を遂行する(第二次アヘン戦争)[9]。フランスは清侵略と並行して清周辺地域への侵略も開始し、同1856年、阮朝(ベトナム)に対して不平等条約締結に応じるよう要求したが、阮朝が拒否したため、スペイン人宣教師死刑を口実として1857年よりベトナム侵攻を開始し、1858年9月にはフランス・スペイン連合艦隊によって再度ダナンに侵攻する。同1858年、英仏軍による北京陥落を恐れた清政府は天津条約の締結に応じ、一時終戦した。しかし、英仏軍が撤収するや清政府は条約批准を拒否して発砲、1860年に英仏軍が攻撃を再開、北京は陥落する。清はさらに不利な北京条約を締結させられた[10]。フランスは日本とも1858年徳川幕府との間に不平等条約日仏修好通商条約を締結したが、ここでは英仏の協調は崩れ、フランスは徳川幕府、イギリスは薩長を支持して対立、幕府は明治維新で倒れ、また明治政府は対等外交を志向したため、幕府を通じて日本に影響力を行使しようとした目論見は潰えた[11]。, フランスはその後1862年6月に阮朝に不平等条約であるサイゴン条約を結ばせ、南部3省を割譲させた[12][13]。阮朝の宗主権下にあったカンボジア王国では、カンボジア人の反ベトナム感情を利用して1863年にフランス保護国に組み込むことに成功した[14]。1866年には李氏朝鮮に対してフランス人宣教師死刑を口実に戦争を仕掛けたが(丙寅洋擾)持久戦に持ち込まれ、撤退した[15]。1867年6月にはベトナム南部のコーチシナへ侵攻し、併合に成功[16]。シャム(タイ)にも英米に続いて不平等条約を締結させたが、フランスとの対立激化を恐れたイギリスが同地を緩衝地帯にすることを望み、フランスのタイ分割案を牽制したこともあって、タイは植民地化をまぬがれた。, フランス第三共和政時代の1874年3月、第2次サイゴン条約を締結、フランスは紅河通商権を割譲させる。1882年4月にはハノイを占領する。1883年8月には第1次フエ条約(アルマン条約、癸未条約)を締結しベトナムがフランスの保護国になる。翌1884年6月には清への服属関係を断つ第2次フエ条約(パトノートル条約、甲申条約)締結に成功する。その2か月後にベトナムへの宗主権を主張する清との間で清仏戦争がはじまる。1885年6月9日に締結された講和条約である天津条約(李・パトノートル条約)では清はベトナムに対する宗主権を放棄し、フランスの保護権を認めた。1887年10月、フランス領インドシナ連邦が成立する。こうしてベトナムはカンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。阮朝は植民地支配下で存続していた。1889年4月にはラオス保護国を併合した。, 1900年代になると、ベトナム知識人の主導で民族主義運動が高まった。ファン・ボイ・チャウは、日露戦争でアジアの一国である日本がヨーロッパの帝国の一つであるロシア帝国に勝利したことに感銘を受けて大日本帝国に留学生を送り出す東遊運動(ドンズー運動)を展開。1917年にロシア革命によってソビエト連邦が成立すると、コミンテルンが植民地解放を支援し、ベトナムの民族運動も、コミンテルンとの連携のもとで展開していく。こうしたなか、1930年にはインドシナ共産党が結成され、第二次世界大戦中のベトミン(ベトナム独立同盟)でもホー・チ・ミンのもとで共産党が主導的な役割を果たし、ベトナム民族が独立することは1945年のベトナム独立宣言でも謳われ、のちの第一次インドシナ戦争、ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)でも、理念であり続け、戦争を持続させた原動力であった。, 日中戦争当時、英米は援蔣ルートを通じて中華民国の蔣介石率いる国民党軍拠点の重慶に支援物資を輸送していた。援蔣ルートのうち、フランス領インドシナのハイフォン港から昆明、南寧までの鉄道輸送を行う仏印ルートが重要なものであった[17][18]。, 1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、1940年にはフランスがドイツに敗北し全土をドイツ軍の占領下に置かれ、その後親独政権であるヴィシー政権が成立した。これを受けてフランスの植民地政権がヴィシー政権側につくことを選択したことで、1940年7月27日にドイツとの間で日独伊三国同盟を結んでいた日本政府(第2次近衛内閣)は「時局処理要綱」において仏印進駐を決定。8月30日に松岡・アンリ協定が結ばれ、ヴィシー政権およびフランス植民地政府が日本の経済的優先権および軍事的便宜を認める見返りとして、日本がインドシナにおけるフランスの主権とインドシナの領土保全を約束することで合意した。, このため仏印進出は平和進駐となることが通達されていたが、9月22日には大日本帝国陸軍が越境し、これを受けてフランス軍と第5師団(中村明人中将)が衝突し、日本軍がランソンを軍事制圧する。9月26日に日本軍は北部インドシナに進駐し、仏印援蔣ルートは遮断された。国境監視団は澄田睞四郎少将(澄田機関)が行った[19]。ベトナム人は日本軍を、過酷な植民地支配を続けるフランス人を追い出した「救国の神兵」として歓迎し、さらに駐留日本軍はベトナム国民党などの独立運動を支援しようとする[19]。しかし、松岡・アンリ協定によってフランスのインドシナ領有を尊重する約束が交わされており、東京の大本営は独立支援を許可しなかった[19]。, その2か月後にフランス軍が再度ランソンに進軍[20]。このとき、澄田機関から独立運動を応援するといわれていたチャン・チョン・ラップらが決起するが、フランス軍に制圧され、青年独立義兵が多数処刑されるランソン事件が起こる[20]。逃れた義兵は中華民国でベトミンに合流するが、この事件は日本軍がベトナムの愛国者を見殺しにした事件としても記憶される[20]。, ヴィシー政権統治下および日本軍進駐下における1944年末から1945年にかけてのベトナム北部で大飢饉が発生し、20万人[21]以上、ホーチミンの主張では200万人[22]が餓死する事態が発生する。コミンテルンの構成員であったホー・チ・ミンを指導者とするベトミン(ベトナム独立同盟)武装解放宣伝隊は「飢饉は日本軍の政策によるもの」と主張し、民衆の反日感情が爆発した[22]。またフランス政庁も反日感情をあおるために保有米を廃棄するなどした[23]。この飢饉がベトミンの勢力拡大の決定的な機会となった[24]。, 日本は1943年5月の御前会議で「大東亜政略指導大綱」を決定し、イギリスの植民地であったビルマと、アメリカの植民地であったフィリピンの独立を承認[25]、戦局が悪化しつつあった1944年9月には、小磯国昭首相がオランダの植民地であったインドネシアの独立承認を言明する。フランス領インドシナについては、1944年8月に連合国軍と自由フランスによるフランス全土の開放によってヴィシー政権が崩壊すると、仏印処理によって即時独立付与が実施される。, イギリスやアメリカ、中華民国などの連合軍と、今や本国が友邦ドイツの敵国の自由フランスの手に落ちたフランス植民地軍との挟撃の可能性を断つために、1945年2月28日に大本営は南方軍総司令官に対してフランス領インドシナの武力処理・明号作戦を通達する[26]。現地フランス軍は9万人、日本軍は4万人であったため、奇襲攻撃を3月9日午後10時にインドシナ全域で開始、翌日午前中までにはフランス植民地軍とフランスインドシナ植民地政府を制圧する[26]。バオ・ダイ皇帝は涙を流しながら「戦争終了後は友邦日本とともに苦難を越えて共同してゆきたい」と語り[26]、3月11日にはベトナム帝国樹立を宣言する。, 当時ベトナムでは「日本は笑い、フランスは泣き、中国は心配し、独立したベトナムでは餓死者が道に溢れる」とうたわれ[27]、ハノイの雑誌「タインギ」編集長のヴー・ディン・ホエは日本による独立付与を「天から降ってきた独立」と表現した[28]。他方、ベトミン中央委員会は3月12日、闘争指令を発し、日本軍に対する攻撃を各地で活発化させる[29]。大飢饉の問題については日本軍が引き続き食料供出を要求していたこともあり、このような「独立付与」の枠内では飢饉を解決することはできず、ベトミンによる「日本の倉庫を襲撃せよ」という運動は北部農村で浸透していった[30]。, 1945年8月10日午後8時に日本政府がポツダム宣言受諾を連合軍に通知したとの短波放送を行い、8月12日午前0時頃、サンフランシスコ放送は連合国の回答を放送した[31]。ラジオで情報を得たホーチミンは日本軍降伏を革命のチャンスとみなし、フランス軍の再進駐より前に実権を奪うことを計画する[31]。8月13日からのアンザン省タンチャウ総司令部での会議では、中華民国やイギリス、アメリカとの紛争を避けて、「味方を多く、敵を少なく、すべての侵略に反対する」という方針が決定された[32]。, なお結果的に日本が降伏した8月15日以降、アメリカ軍は9月4日、中華民国軍は9月9日、イギリス軍は9月13日、フランス軍は10月5日に至るまでベトナムに上陸しなかったため(マスタードム作戦)、日本軍は武装を解かれず、駐屯フランス軍部隊は明号作戦から拘束されたままという状態が生じ、この政治的空白も独立派に有利に働くことになった。, 1945年8月17日に、ベトナム帝国首相のチャン・チョン・キムがハノイ市民劇場前広場で「独立を与えた日本は敗れたが、ベトナムは心を一つにして我々の政権を築こう」とフランスの復帰を警戒する内容の演説を行った[17][33]。このとき、ベトミンが金星紅旗をあげるなかマイクを奪い、「独立万歳」、「打倒ファシスト」、「日本は独立をやってくれたがこれからはみんなで働こう」といった声があがった[17][34]。8月19日にはベトミンの大会が開かれ、20万人のデモ隊は市庁舎や日本軍が手放した保安隊や警察署など政府機関を次々と占拠し、ハノイ・クーデターが成功する[17][35]。8月20日にはフエの王宮にいたベトナム帝国皇帝のバオ・ダイに対して、ベトミン革命軍事委員会が退位を要求、24日、バオ・ダイ帝は退位する[17]。こうして143年続いた阮朝(グエン王朝)は滅亡した。23日から25日にかけて駅、中央郵便局、発電所などが占拠され、26日にはベトミン軍がハノイに入城、28日にベトナム民主共和国臨時政府が樹立された[17]。, 9月2日にホー・チ・ミン(胡志明)は「ベトナム独立宣言」を発表、すべての民族は平等であり、1847年のフランス軍艦によるダナン攻撃事件以来、80年にわたるフランスの植民地支配を人道と正義に反するものとして糾弾した[17][36]。こうしてベトナム八月革命は成功し、ハノイを首都とするベトナム民主共和国(北ベトナム)が樹立し、共産主義国家建設を目指した。ホーはアメリカのハリー・S・トルーマン大統領に国家としての承認を繰り返し書簡で求めた[37] が、同盟国であるフランスに対する気遣いとともに、共産主義者による統治を警戒するアメリカ政府はとりあげなかった[38]。また新設された国際連合にもフランス植民地支配についての公正な解決を訴えたが、徒労に終わった[37]。, 第二次世界大戦末期の戦後統治計画を練るなか、自由フランスのシャルル・ド・ゴールを嫌っていたアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は「フランスはインドシナを植民地にしてから何か発展させたことがあったか。あの国は百年前よりひどくなっている」とフランスのインドシナ植民地を批判し、インドシナ信託統治を構想していた[39]。しかし、イギリスは信託統治をしたらイギリス帝国がなくなってしまうとして反対し、新たにフランスの事実上の指導者となったド・ゴールは1945年3月24日にインドシナ連邦を構築し、フランス総督が統轄し、フランス連合に組み入れると声明を発表し[39]、植民地時代の復帰を求めた。, ルーズベルトが1945年4月12日に死去してからアメリカ国務省はインドシナ問題を検討し、4月20日に国務省欧州担当官はルーズベルトのあとを継いだトルーマンに対して「アメリカはフランスのインドシナ復帰に反対すべきでない」と、反共産主義の立場から進言し、同極東担当官も翌日同内容の進言を行った[40]。6月22日にアメリカ国務省は「アメリカはフランスのインドシナ主権を承認する」との統一見解を決定する[40]。, 1945年7月26日に連合国によって開かれたポツダム会議で、「インドシナは、北緯16度線を境に、北は中華民国軍、南はイギリス軍が進駐して、約6万のインドシナ駐留日本軍を武装解除してフランス軍に引き継ぎ、インドシナの独立を認めない」と決定された。9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言を受けて、南部に進駐していた駐英領インド軍のダグラス・グレイシー将軍は騒乱を理由にベトナム民衆から武器の押収をはじめる[41]。9月6日には駐英領インド軍の部隊がサイゴンに入り、9月9日には盧漢将軍率いる中華民国軍がハノイに入った。, これらの連合国軍は、日本軍の収容所に入れられていたフランス軍将兵を解放し、9月23日午前5時、英領インド軍の援助で武装した1000名のフランス軍がサイゴン侵攻を開始、主要な公共機関を占拠し、フランス国旗を掲げ、サイゴン全域を制圧した[42]。英領インド軍のグレイシー将軍は戒厳令を敷いた[42]。こうした英軍の行動について読売新聞編集員の小倉貞男は「英国はアジアにも植民地をもっており、インドシナの独立によって、植民地支配を崩そうとする連鎖反応が起こることを極度に警戒していた」と指摘している[42]。10月5日にはフランス軍増援部隊が到着、サイゴンなど南部の革命勢力は制圧され、さらにメコン・デルタも制圧し、北上を開始する[42]。, 進駐した連合軍のうち、中華民国の中国国民党軍はフランス植民地政府の復活を支援する意図はなかったが、敵対する中国共産党と同じイデオロギーであるインドシナ共産党に対して好感をもっていなかった[43]。そのため、ホー・チ・ミンは中国国民党軍との対立を避けるために、

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