竹内まりやの「Plastic Love」だ。今年デビュー40週年を迎えた竹内が30年以上前に発表した曲が、いかにして、海の向こうのリスナーたちの心を捉えたのか。竹内本人にもインタビューした米音楽ライター、パトリック・セント・ミシェル氏に寄稿してもらった(英文は下)。 30年前の … - 1978)。当時の音源は1978年(昭和53年)に作品化されており、そこでは当時の名義が用いられている。, しらさやえみ(白鞘慧海)のセカンドシングル「君のそばに~song for Lucky」(1997年〈平成9年〉11月21日発売)では MAKO 名義で作詞している。この曲は別の歌手に提供するために作曲を担当した杉真理と共作したもので、しかし使われることなくお蔵入りしていたのを、白鞘が気に入ってシングル化したという経緯がある。Mako という名前は留学していたアメリカの公立高校でのニックネームと同じである(cf. ?出身校や印税年収!若い頃の髪型も, 竹内まりやさんはデビュー当時ちょうど芸能界がアイドル不在の時期だった背景もあり、そのルックスからアイドル的な活動もされていたとのこと。, 竹内さんとしては自分の希望する活動とのギャップに悩んでいたそうですが、若い頃の写真を見るとアイドルとしても充分通用するのがわかりますね。, 竹内まりやさんがアイドル時代に仲の良かった岡田有希子さんに提供した11曲を集めた「~岡田有希子まりやソングブック~」が10月16日に発売されることが発表されました!, #岡田有希子は癒やしの素今日ネットで見たら、まりやさんがユッコに曲提供した11曲を集めた~岡田有希子まりやソングブック~が10月16日に発売される記事を見た❇❇, — ⭐♥Yukko And Sakko(ユッコアンドサッコ)♥ (@iyashi8850) 2019年9月17日, 岡田有希子さんの記事はこちら!↓↓↓↓↓↓↓↓岡田有希子自殺の原因は彼氏との妊娠?遺書や家族・酒井法子との関係も, 竹内まりやさんの記事はこちらも!↓↓↓↓↓↓↓↓竹内まりやの実家は旅館で両親兄弟は?中学高校大学や年収!娘の名前や孫は?, そして、2019年の大晦日にはデビュー40周年にして初めて紅白歌合戦に出場することが決まりました!, なお、竹内まりやさんの紅白歌合戦の出演シーンを見逃した際の視聴方法については以下の記事で解説していますのでこちらも合わせてご参照ください。, 紅白歌合戦の視聴方法はこちら!↓↓↓↓↓↓↓↓竹内まりや紅白の無料動画見逃し配信や再放送!出演時間は何時で順番は?, Copyright ©  気になるスコープ! 同店で問い合わせが特に集中しているのは、山下達郎(66才)と竹内まりや(64才)だという。海外の音楽ファンの間では、2人は“シティー・ポップの代名詞的存在”となっているというのだ。 そもそもシティー・ポップとは何か。音楽ライターの金澤寿和さんが解説する。 「1970~1980 竹内まりや「souvenir2021 mariya takeuchi live」公演中止のお知らせ 2020.12.17 毎年恒例「年忘れ夫婦放談」にゲスト出演! 2020.12.04 広末涼子さんへの提供曲「キミの笑顔」配信スタート! 2020.12.03 『家庭画報』2021年1月号にインタビュー掲載。 2020.12.01 美人鑑賞. 「Plastic Love」は、竹内まりやの12枚目のシングル、6thアルバム「VARIETY」(1984年)に収録曲で、”都会暮らしの若い女性による自由恋愛”という極めてフィクショナルなテーマを独自のセンスで描き、クラブではDJたちから長く愛されてきた楽曲。そして近年YouTubeをきっかけに … 「シティポップ」の愛称で、日本をはじめ海外でも人気を集める70〜80年代の邦楽曲。欧米やアジアにも多くのファンが存在し、YouTubeでも人気の山下達郎や竹内まりやの楽曲はもとより、アンテナの高い海外コレクターたちは、日本人でも「なぜ知ってる? Such a big fan of her❤️, http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20130924-OHT1T00019.htm, 【シティポップの海外人気を検証!】海外のキーマンたちが語ったシティポップブームの現在, 竹内まりや初のライヴ・ドキュメンタリー映画『souvenir the movie ~MARIYA TAKEUCHI Theater Live~」&2012年公開の『山下達郎シアター・ライヴ PERFORMANCE 1984-2012』、5月17日より同時アンコール上映決定, souvenir the movie ~MARIYA TAKEUCHI Theater Live~, souvenir the movie Mariya Takeuchi Theater Live, 竹内まりや Official Web Site LIVE INFORMATION, 竹内まりやが初出場の紅白で歌う「いのちの歌」に器の大きさを感じる理由 < 連載「岡村詩野の音楽日和」, 竹内まりやさんが語る“シンガーソング専業主婦”の自分… Oggi10月号に初登場!, 40周年の竹内まりや、初のライブ映画『souvenir the movie』が11月公開!, 竹内まりやは“自己実現”と“家庭”を両立したパイオニア 40年以上も愛され続ける要因を考える, なかなか生では見られない、竹内まりやが歌ってギターを弾く姿を劇場で堪能できる。- 『BRUTUS』No. 今年で山下達郎との夫婦生活が38年を迎える竹内まりやが、達郎との間柄を明かした 達郎については、デビュー以来初となる映像作品に収録されたインタビューで語られた 音楽関係者は、2か月ほど前に、達郎が「卒婚ってどう思う?」と聞いていたと話す 2020年11月現在 65歳 の竹内まりやさんですが、とても還暦をすぎているとは思えないほどの美しさです。. Very surreal to see her in the yearbook from the library and know she’s been places I’ve been visiting since I was a kid! 出典:https://www.amazon.co.jp 1984年4月25日に発売した竹内まりやの6thアルバム『VARIETY』収録曲。 1982年に山下達郎と結婚し、音楽活動を休止していた竹内まりや。 6thアルバム『VARIETY』は、竹内まりや復帰後初のアルバムだった。 これまでのアルバムは、様々な作家が曲を提供していたが、本作では全曲作詞作曲・竹内まりや(編曲・山下達郎)。 つまり、本作から竹内まりやは本格 … 竹内まりや整形で現在の顔が若い頃と全然違う?顔が爺さんに劣化? 竹内まりやの出身や出身校、経歴は? 竹内まりやの出身と出身校は? 竹内まりやさんは、島根県の現出雲市出身です。 竹内まりやさんの生まれたのは、1877年創業の老舗旅館「竹野屋旅館」で出雲大社参拝者が宿泊す … 解説 「プラスティック・ラブ」は当初、1984年発売の6thアルバム『VARIETY』 の収録曲として発表された 。 竹内が作詞・作曲を手がけ、アレンジ・プロデュースに山下達郎を迎えて制作された 。 歌詞は「都会暮らしの若い女性による自由恋愛」という極めてフィクショナルなテーマ … 竹内まりやの見た目が若すぎる. 竹内まりやの「プラスティック・ラブ」が、欧米で類稀なる注目を集めている。都会の女性の自由な恋愛と孤独を歌ったこの曲が、1984年の発表から35年の時を経たいま、なぜ“世界でバイラル”しているのか? 紅白初出場とはまったく無関係だが、その謎に迫る。 わかりやすく楽しくがモットーです!, MAN WITH A MISSIONの狼姿や英語が評判!素顔や正体は?綾野剛とコラボも. 竹内まりやさんと言えば日本を代表する女性シンガーソングライターであり、数々のヒット曲を出されていますよね。, そんな竹内さんは還暦を迎えられたとのことですが、衰えを感じさせない美貌で真の美魔女だと話題になっています。, また、竹内さんの夫と言えばこちらも日本を代表するシンガーソングライターである山下達郎さんですが、そんな二人がどのように結婚まで至ったたのか馴れ初めについても気になるところですね。, 若い頃もさぞかし美人なんだろうと想像してしまいますが、その頃の竹内さんについてもまとめてみたいと思います。, 美魔女として世界でも有名になった方と言えば⇒井上和子(モデル)はアパレル会社の美魔女おばあちゃん!旦那や孫の噂も, 竹内さんは現在の出雲市に生まれ、実家は出雲大社正門前に位置する老舗旅館「竹野家」だそう。, まりやという名前は本名なのですが、世界に通じるようにという父の考えから名付けられたとのことです。, 高校時代には交換留学制度でアメリカ・イリノイ州のロックフォールズ・タウンシップ・ハイスクールに留学し、卒業後は慶應義塾大学へ進学します。, その後、竹内さんは大学で音楽サークルに入って活動を始め1978年にデビューしました。, デビュー後、シンガーソングライターとして活躍されている竹内まりやさんですが2015年の誕生日に還暦を迎えました。, 竹内さんの場合、無理して若作りしているという感じがなく実に自然な感じで若さを保っておられるのがすごい所だなと思います。, 夫の山下達郎さんとの間には長女が一人おり、結婚後は一時期活動を控えられた時もあったそうですが、こうやって若さを保っておられるのは、その後も音楽を通じて多くの人へパワーを与え同時に受け取ってきたからかもしれませんね。, REQUEST -30th Anniversary Edition- [ 竹内まりや ], 竹内さんはもともと山下さんの音楽が好きで、ライブなどを見て大きな影響を受けたそうです。, そして、同じレコード会社の先輩後輩という関係となり、芸能人運動会みたいな番組に出て悩んで行き詰まった時に、山下さんが親身になって相談にのってくれたとのこと。, そうしたことがきっかけとなり、1982年、結婚に至ったと竹内さん自身が語られています。, 公私ともにパートナーとしてその後も歩んで来られたのは本当に理想の夫婦という感じがしますね。, 山下達郎さんと長女に関する記事はこちら!↓↓↓↓↓↓↓↓山下達郎の娘は山下絵理/ellie! 竹内 まりや(たけうち ... 母は山口県 下関市出身で、医師を目指す大学生であったが、若い 頃の父と恋に落ちて学生結婚し、やがて竹野屋旅館の女将になった 。竹内はそのような夫婦の娘として、2男4女の6人兄弟の三女・第4子として、1955年(昭和30年)3月20日に生まれた 。竹内以 … 竹内まりや「プラスティック・ラブ」海外でも人気、賛辞の声続々 アナログとデジタルどちらで聴く? 2010年代前半頃から日本で「シティポップ」が注目を浴びる様になりましたが、海外でも少し前から話題になっている様です。 竹内まりやさんは、若い頃はアイドル歌手のような活動もしていましたが、そんな活動から抜け出すために活動を一旦休止したんです。 竹内まりやさんは1982年に山下達郎さんと結婚して、以後はメディア露出を減らして少しずつシンガーソングライターとして活動を再開していきまし … 883, [Power Push] 竹内まりや×クリス松村「Mariya's Songbook」対談 (5/5), 藤田賢治郎さん < 東京から出雲へIターン < 移住者の声 < しまねへのUIターンを支援しています, SONGS -40th Anniversary Ultimate Edition-, SEASON'S GREETINGS 20th Anniversary Edition, THE YELLOW MONKEY SUPER JAPAN TOUR 2016 -SAITAMA SUPER ARENA 2016.7.10-, SAKANAQUARIUM2017 10th ANNIVERSARY Arena Session 6.1ch Sound Around, LIVE ALBUM『感電の記憶』 2002.5.19 TOUR『NUM-HEAVYMETALLIC』日比谷野外大音楽堂, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=竹内まりや&oldid=81594353, 結婚前のコンサート以来、約20年ぶりのステージとなった。バンドマスターは夫である山下達郎が務めた。本公演の模様は、ライブアルバム「souvenir mariya takeuchi live」として発売された。, 2000年の日本武道館及び大阪城ホールでのステージ以来、10年ぶりの本格的なコンサートとなった。, SPACE SHOWER TV 25TH ANNIVERSARY SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER 2014, ケンタッキーフライドチキン Presents 『souvenir 2014』 竹内まりや LIVE, MARIYA TAKEUCHI ファンミーティング(プレミアム・ミニライブ&トーク), ケンタッキーフライドチキン Presents 『souvenir 2021』 竹内まりや LIVE, 2018年のファンミーティング以来、3年ぶりのステージとなり、アリーナツアーとしては2014年から7年ぶりである。, Various Artists「ロフト・セッションズ VOL.1~フィーチャーリング・フィメール・ヴォーカリスツ」, 1979年(昭和54年) - 銀座音楽祭”グランプリ”、新宿音楽祭”金賞”、日本歌謡大賞”新人賞”、日本レコード大賞”新人賞”, 1990年(平成2年) - 第32回日本レコード大賞”最優秀ポップス・ボーカル賞” ”作詩賞”(『告白』日本テレビ系「火曜サスペンス劇場」主題歌), 1993年(平成5年) - 第35回日本レコード大賞”アルバム大賞” ”ベストアルバム賞”(アルバム「Quiet Life」), 2014年(平成26年) - 第56回日本レコード大賞”最優秀アルバム賞”(アルバム「TRAD」), 『竹内まりやのおしゃれフロック』(文化放送:1981年まで約1年間)平日深夜24時代に帯番組で放送。. 竹内まりやの自身初が話題になっています。 tvなどで竹内まりやさんの姿を見る機会ってほとんど無いですよね?それもそのはず、彼女はほとんど露出しない歌手なんです。 そんな竹内まりやさんは過去のライブ映像を初映画化した「souvenir the movie」の公開に伴い、自身初となる … 人気モデル・芸能人・海外セレブの整形・劣化・激やせ・激太り・顔などから美を学ぶセレブウォッチャーによる美容ブログです。 竹内まりや現在若い頃画像紅白出場山下達郎画像老けない劣化知らず. Fushigi na Peach Pie/Mysterious Peach Pie(1980)TBS ザ・ベストテン The Best Ten performance1:37 xDReupload of a deleted vid, hopefully this stays 62歳の竹内まりやさん (海外の反応をまとめました) アジア人は年を取らない。 スカーフで首のしわを隠してるね。それでも十分若いけど。遺伝子と太陽を避けてるおかげだろう。 フィルターと加工なしでは:リンク ぼやけた写真だしメイクのせいだろ? 髪染めてる? 中国古来の秘儀 … 竹内 まりや(たけうち まりや、1955年〈昭和30年〉3月20日 - )は、日本のシンガーソングライターで、作詞家・作曲家、ミュージシャン、音楽プロデューサーでもある。出生名も同じ。結婚後の本名は 山下 まりや(やました - )。, 「シンガーソング専業主婦」とも呼ばれる(※後述参照)。島根県簸川郡大社町杵築南(現・出雲市大社町杵築南[gm 1])出身。, 生家・実家は出雲大社正門前に位置する1877年(明治10年)創業の老舗旅館「竹野屋旅館」[7][注 1](※後述参照)。父親は4代目竹内繁蔵(旅館経営者。のちには大社町町長も務めた)[10]。夫は山下達郎(シンガーソングライター、ミュージシャン)(※後述参照)。山下との間に一女がいる(※後述参照)。, 現在所属するレコード会社はワーナーミュージック・ジャパン。現在所属する芸能事務所はスマイルカンパニー、および、夫と共同経営する(著作権管理用)個人事務所のテンダベリー&ハーヴェスト(竹内側の企業[注 2]は竹野屋内にある有限会社ミュージック・ハーヴェスト[11][注 3][注 4])。, 父は老舗旅館「竹野屋旅館」の4代目当主であった4代目竹内繁蔵である[10][注 5]。母は山口県下関市出身で、医師を目指す大学生であったが、若い頃の父と恋に落ちて学生結婚し、やがて竹野屋旅館の女将になった[注 5]。竹内はそのような夫婦の娘として、2男4女の6人兄弟の三女・第4子として、1955年(昭和30年)3月20日に生まれた[10][13][注 6]。竹内以外の兄弟の名前は全員日本的で、3人の姉妹はみな「〇〇子」という名前である[注 5]。竹内がただ一人例外になっているのは、1人くらいは自分の好みで名付けたいと思った父が、ならば世界中どこへ行っても呼びやすい名前にしようと考え、「マリヤ[14]」から採って「まりや」と命名した[注 5][注 7]とのことである。父は歌が、母はピアノが上手いという[15]。, 1961年(昭和36年)4月1日、早生まれの竹内は6歳に成りたてで、地元の大社町立大社小学校(現・出雲市立大社小学校[gm 3])に入学する。, 1967年(昭和42年)4月(12歳時)、大社町立大社中学校(現・出雲市立大社中学校[gm 4])へ進学。, 1970年(昭和45年)4月(15歳時)、島根県立大社高等学校[gm 5]へ進学する[2]。, 高校2年生の9月から大学受験を控える3年生の8月まで、AFS交換留学制度を利用して、米国イリノイ州のロックフォールズ(英語版) にある四年制公立高校「ロックフォールズ高等学校(ロックフォールズ・タウンシップ・ハイスクール(英語版)、Rock Falls Township High School)[gm 6]」で1年間の留学生活を送ることになった[1][16][17][注 8]。同校でのニックネームは Mako [18]。クラブ活動はコーラス部に入った[16]。初めて本気で男性を好きになったのもこの時期で、告白するも大失恋に終わった[16][17]。この時の経験は恋愛をテーマにした曲作りに活かされており、失恋の曲などでは同じコーラス部で音楽センスが良く歌の上手かった年下のその男の子の面影を追って書いている、ようなことを言っている[16][17]。その後、将来の夫である山下達郎に出逢うまでに2人の男性を好きになったことも、この話題の中で仄かしている[16][17]。帰国してからは大学受験に向けて勉強の日々が始まったが、アメリカでは女子はみなミニスカート、男子はみなロングヘアで車を乗り回したりで、一方の日本では黒い制服におさげ髪という、向こうとこっちで物凄い落差があり、それがまた楽しくもあったという[16]。, 1973年(昭和48年)4月(18歳時)、慶應義塾大学文学部へ進学し、英米文学を専攻する[1][注 9]。慶應には、日吉キャンパス[gm 7]を本拠として1962年(昭和37年)に結成された同校公認のオールジャンル・バンドサークル(音楽バンド同好会)「Real McCOYs(リアル・マッコイズ、通称:マッコイ、慶應リアルマッコイズ、頭字語:KRM)[20]」があり、ジャンルを問わずに音楽とライブ等の演奏を楽しむこのサークルに[20]竹内も籍を置いた[1][21]。3年生の杉真理がリーダーを務めるこのバンドサークルで、竹内は鈴木慶一の従妹らとともにバックコーラスを担当している。また、杉のソロ活動をバンド形式でサポートする「PEOPLE(ピープル)」にも参加してキーボードとバックコーラスを担当した[21]。なお、のちに結婚することとなる山下達郎が大貫妙子と共に結成した「シュガー・ベイブ」はこの年の4月から活動しており、大学時代の竹内の一番好きなバンドであった[22][23]。当時の竹内はプロの歌手を目指していたわけではなく、将来は音楽雑誌の編集者になりたいと思っていた[注 5]。, しかし、音楽活動に日々入れ込みすぎたため、大学のほうは1年目でフランス語の単位を落としてしまい、早々に留年してしまう[注 5][注 10]。大学を“ちゃんと”出て普通に就職するつもりが、これでそうも行かなくなった[注 5]。そのようなとき、PEOPLEで活動していてプロの業界人と繋がりができ、歌手にならないかと誘われる[注 5]。, 1974年(昭和49年)9月7日、杉の率いる PEOPLEは第8回ポプコン関東・甲信越大会(中野サンプラザ)に「踊りに行こう」という曲で出場している。この大会には、別グループのメンバーとして、佐野元春(バックレイン元春セクションを率いる)、庄野真代、桐ヶ谷仁(フェードインを率いる。のちに松任谷正隆が経営する音楽学校の講師を務める)も出場していた。, 竹内もバックコーラス等で参加する杉真理のバンド「PEOPLE」は、杉が1977年(昭和52年)にレコードデビューする際、「Mari & Red Stripes(マリ・アンド・レッド・ストライプス)[24][25]」へと名を改めた。このバンドは短い活動期間の後、杉が急病で倒れたために事実上の解散状態になったものの、結成したバンドは解散しないという杉のポリシーの下で一応はその後も存続しており、したがって、杉が活動を続ける限りは竹内もバンドメンバーであり続けている。このバンドは2008年(平成20年)発表の杉の新作アルバム『魔法の領域』に収録の1曲「僕らの日々」でクレジットされた。, 1978年(昭和53年)、竹内はビクターより発売された『ロフト・セッションズ (1)』に参加し、「ハリウッド・カフェ」と「8分音符の詩」の2曲を録音する。この「ハリウッド・カフェ」と「8分音符の詩」はプロモーション・オンリーの7インチシングル盤でシングルカットされた。この時の竹内の名義は「竹内マリヤ」であった(※『名義』も参照)。竹内は、同年11月25日、RCA/RVC より、シングル「戻っておいで・私の時間」、アルバム『BEGINNING』で音楽界デビューを果たす。この時、22歳であった。アイドル不在の時期と重なったため、当初はそのルックスも相まってアイドル歌手のような役割を担った。, 1979年(昭和54年)8月21日、3枚目のシングル「SEPTEMBER」を発売する。この曲はトップ100圏内に半年近くチャートインし続け、同年12月31日に開催された第21回日本レコード大賞で新人賞を獲得するに到った。, 1980年(昭和55年)には、資生堂の化粧品のCMソングとなったシングル曲「不思議なピーチパイ」がヒットする。当初は安井かずみ・加藤和彦夫妻や松本隆などが提供する曲を歌っていた竹内であったが、これに飽き足らず、自らも作詞・作曲を手がけるようになった。, ところが、アイドル的活動には大きな不満を持っていた。心ならずもバラエティ番組や雑誌の表紙やグラビアなどにも引く手数多のアイドル活動をやらされることになった竹内は、歌わせてさえもらえない仕事も数多くこなさざるを得なかった。与えられた仕事を懸命にこなしながらも根本的疑問を抱えていたこの時期の竹内の前にアレンジャー(編曲家)として現れたのが、のちに公私に亘ってパートナーとなる山下達郎であった。, 山下と大貫妙子が率いるシュガー・ベイブや山下のライブをアマチュア時代から見に行っていた竹内は、特に自らのデビューライブの直前に見た山下のライブに大きな衝撃を受けていた[26]。竹内のレコーディングにアレンジャーとして起用された山下は、その後、同じRVC所属のシンガーのレコーディングに際して双方がコーラスに起用されるなど、関わりを密にしていった。アイドル的活動に深く思い悩んで行き詰まった自分に山下は親身になって相談に乗ってくれて、それが結婚に到るきっかけになったと竹内は語る[27]。二人は次第に懇意になり、やがて山下のマンションで同棲するようになった[28]。音楽番組『夜のヒットスタジオ』の同年7月28日放送回に出演した竹内は司会者に問われて山下との交際を認めている(後述参照)。, なお、竹内の結婚前の作品は、山下達郎をはじめ、加藤和彦、細野晴臣、告井延隆(センチメンタル・シティ・ロマンス)、大貫妙子、林哲司、伊藤銀次、杉真理、安部恭弘、浜田金吾といった作家が提供している。, 1981年(昭和56年)、先述したアイドル歌手としてオファーと自身の希望する活動とのギャップに原因するストレスと過酷なスケジュールが祟って竹内は喉を傷めて入院し、音楽活動に一旦整理をつける意味から一時休業を宣言した。, 1982年(昭和57年)4月、27歳で山下達郎と結婚する。これ以降メディア露出はほとんどなくなったが、同時に作詞家・作曲家として活動を開始し、河合奈保子に提供した「けんかをやめて」「Invitation」などヒットを放つ。しかし同1982年、山下の担当ディレクター小杉理宇造がRVCから独立し、アルファ・ムーンを設立すると、山下も「役員兼所属ミュージシャン」として移籍する。, 竹内は、「記念に一枚」のつもりで、1984年(昭和59年)にシングル「もう一度」、そして全曲を竹内自身が作詞・作曲したアルバム『VARIETY』をリリース。このアルバムの構想段階では、以前のように外部作家を起用して制作する予定であったが、休業中に竹内が書きためたオリジナル曲のクオリティの高さに山下が驚き、結果、全曲を自作曲のアルバムとしてリリースすることとなった。同作品は最終的に30万枚以上のヒットを記録することになる。同年、娘が誕生する。, 1981年(昭和56年)の休養宣言と1982年(昭和57年)4月の結婚をターニングポイントとして、それ以降は家庭を最優先にする生活になったため、ライブ活動からは遠のいた。しかし、アレンジャーとプロデューサーを務める夫のサポートを受けながら、シンガーソングライターとして活動は続けた。, 作詞・作曲家としては、薬師丸ひろ子の「元気を出して」(1984年/昭和59年)、岡田有希子の「-Dreaming Girl- 恋、はじめまして」(1984年)、中山美穂の「色・ホワイトブレンド」(1986年/昭和61年)など、数多くのヒット作を生み出してゆく。なお、「元気を出して」は1987年(昭和62年)に竹内がセルフカバーしているほか、中国語カバー(北京語と広東語のいずれか)が香港と台湾あるいは両地域で2005年までに4度発売されている。日本におけるセルフ以外のカバーは早くも初年(1984年)にピアノソロ曲を出した村松健や、2003年(平成15年)にカバーしてヒットさせた島谷ひとみばかりでなく、多くのカバー曲が生み出されてきた。, 1980年代半ばには歌唱力で売るアイドル歌手・中森明菜のアルバム『CRIMSON』のためにテーマに副った楽曲群を提供し、アルバムは1986年(昭和61年)に発売された。男女の道ならぬ恋を竹内が題材にし始めたのには、この作品群を手掛けたことが大きかったという。これ以降、竹内はOLの何気ない日常に焦点を当てた歌や、道ならぬ恋を題材にした曲を数多く世に送り出していった[注 11]。これらは高評価を得、竹内の音楽世界のパブリックイメージの一つとして定着する。なお、竹内は、中森のアルバムに提供した5曲中の2曲を1987年(昭和62年)発売のアルバム『REQUEST』の中でセルフカバーしており、また、もう1曲のセルフカバーは『Denim』(2007年/平成19年)の初回特典CDに収録された。, 『REQUEST』は3年間のロングセールスを記録する。同1987年11月にはシングル「AFTER YEARS/駅」が発売されているが、「駅」は中森明菜の持ち味に合わせて作曲された竹内にしては珍しいマイナーコードの曲であったものが、作り手と歌い手で曲の解釈が大きく違っていたために論争に発展し、当初は予定に無かったセルフカバー・バージョンとしてリリースされ、大きな支持を集めることとなり、広くこの曲が知られるようになった。, 1989年(平成元年)9月、『火曜サスペンス劇場』の8代目主題歌であった「シングル・アゲイン」が発売され、ロング・ヒット曲となった。, 1990年(平成2年)9月、『火曜サスペンス劇場』の9代目主題歌「告白」が発売され、これもヒットする。, 1992年(平成4年)5月、「マンハッタン・キス」がヒット。同年10月に発売されたアルバム『Quiet Life』は、発売と同時にミリオン・セラーとなった。, 1994年(平成6年)5月、「純愛ラプソディ」を発売。竹内まりや最大のヒット曲(シングル売上ランキング第1位曲)となった。同年7月に発売されたベスト・アルバム『Impressions』は売上枚数300万を超えるヒットを記録する。, 1995年(平成7年)11月発売のシングル曲でケンタッキー・フライドチキンのクリスマスキャンペーン用CMソングとして使用された「今夜はHearty Party」では、当時たまたま観ていたフジテレビ系ドラマ『あすなろ白書』に触発され、歌詞に「キムタク」のフレーズを入れたことから、SMAP・木村拓哉の起用をジャニーズ事務所へ打診したところ、駄目元のチャレンジであったにもかかわらず快諾を得、コーラスと冒頭、間奏の台詞に木村が参加している。, 1997年(平成9年)には、人気アイドル広末涼子が歌手としてデビューするに当たってシングル曲「MajiでKoiする5秒前」を提供し、これもヒットした。眩いほどの希望に溢れた少女の心情を爽やかに謳った曲で、先述した大人の道ならぬ恋の歌を生み出す竹内の振り幅の大きさを改めて示す作品になった。, 全体的には、1990年代の竹内は、縁故のあるミュージシャンのライブにサプライズゲストとして登場し、洋楽カバーを数曲ばかり歌うことはあっても[注 12]、表立ってライブ活動を再開したりはしなかった。, 2000年(平成12年)7月、約18年ぶりの本格的なライブを東京(11日、12日)と大阪(31日)で行う。その後もアルバム『Bon Appetit!』(2001年/平成13年)、カヴァーアルバム『Longtime Favorites』(2003年/平成15年)などをリリースし、タイトルを挙げた2作品はいずれもオリコンチャート第1位を獲得した。, 2004年(平成16年)には山下のシングル「忘れないで」の作詞を担当など、音楽活動を着実に増やし続けていた。, 2006年(平成18年)になると、子育てが一段落したことにより、新譜リリースを精力的に行うようになる。この頃(50歳ごろ)からは、歌手として曲を提供されて歌っていた当時のことも思い出して、他人の作った曲も積極的に歌ってゆこうと考えるようになった[注 5]。, 2007年(平成19年)には、6年ぶりのオリジナルアルバム『Denim』を発表した。この作品でもオリコンチャート第1位を獲得し、健在ぶりを証明してみせた。同年8月に発売したシングル「チャンスの前髪」には、サザンオールスターズの原由子がゲストボーカルとして参加している。, 続く2008年(平成20年)5月のシングル「幸せのものさし」では 、この曲が主題歌となったTBS系ドラマ『Around40〜注文の多いオンナたち〜』の主演女優・天海祐希が竹内たっての希望でコーラスに参加し、ミュージック・ビデオにも出演した。デビュー30年を迎えるこの年の9月には、竹内の曲のみで構成されたジュークボックス・ミュージカル『本気でオンリーユー』が松浦亜弥主演で初演された。また、竹内の故郷である島根県を舞台としたNHK連続テレビ小説『だんだん』が9月29日から放送開始されたが、主題歌「縁の糸」とナレーションを竹内が担当し、また、ヒロインを務めたマナカナ(三倉茉奈と三倉佳奈)には劇中歌「いのちの歌」を提供している(※『名義』も参照)。, 同10月1日には、今までの発表曲を集大成したCD3枚組(初回のみボーナスディスク入りの4枚組)のベストアルバム『Expressions』が発売された。このベストアルバムの選曲にあたり、公式サイトで楽曲のファン投票を行い、NHK『SONGS』1周年記念特別番組にて発表している[注 13]。10月23日には、東京国際フォーラムで開かれた作・編曲家 林哲司の活動35周年記念のコンサートにサプライズゲストとして登場し、林が手がけた「September」「象牙海岸」の2曲を生披露した。12月28日、大阪フェスティバルホールで開かれた夫・山下達郎のフェスティバルホール最後の公演に、「私もフェスティバルホールにさよならをさせて欲しい」との意向でアンコールのサプライズゲストとして出演し、「人生の扉」「September」を披露したのに加えて、ダブルアンコールでは山下とのデュエットで「LET IT BE ME」を披露した。, 2009年(平成21年)4月17日、山下のコンサートツアー東京最終公演(追加公演を除く)にあたる中野サンプラザホールの公演にも、アンコールのサプライズゲストとして出演し、「September」を披露したうえで残り2曲のコーラス隊にも参加した。, 2010年(平成22年)8月14日に北海道で行われた野外フェス『RINSING SUN ROCK FESTIVAL 2010 in EZO』に山下が出演した際、バックコーラスの一人として全曲に参加。同年12月4日、10年ぶりの本格的なライブである『souvenir again』(東京武道館)の初日にピアノ弾き語りで「いのちの歌」を披露した。これは連続テレビ小説『だんだん』において主題的な意味を持つ重要な曲で、「作詞 Miyabi、作曲 村松崇継」ということになっているのであるが、実は「Miyabi」は竹内のペンネームであるということをその場で明かした[29][30](※『名義』も参照)。, 2012年(平成24年)4月6日、結婚30周年(真珠婚)を迎えた同年9月2日、『SWEET LOVE SHOWER 2012』に山下が出演した際、スペシャルゲストとして登場し、「家に帰ろう(マイ・スイート・ホーム)」「元気を出して」を披露した。, 2013年(平成25年)には出身地の出雲市からの依頼を受け、出雲大社の60年に一度の大遷宮が斎行されるこの年に、故郷への想いを歌った楽曲『愛しきわが出雲』を書き下ろし、同年8月に提供した[31][32]。出雲の市民コーラス隊と共に、地元でレコーディングした4日には、デビュー35周年の記念企画としてアン・ルイス「リンダ」、河合奈保子「けんかをやめて」、中森明菜「駅」など他のアーティストへの提供楽曲を集めた2枚組コンピレーション・アルバム『Mariya's Songbook』を発売。自ら監修・選曲を手がけ、楽曲解説も自ら執筆。初回限定盤には自身が歌った提供楽曲のデモバージョンなどのレア音源も収録された[33]。, 2014年(平成26年)、7月デビュー35周年アニバーサリイヤーを飾るシングル「静かな伝説(レジェンド)」リリース。竹内自身の発案で桑田佳祐、原由子をコーラスに迎え、山下達郎も加えた4人での楽曲制作が「蒼氓」以来26年ぶりに実現した。同年9月、7年ぶりのアルバム『TRAD』をリリース。オリコンチャート2週連続で1位獲得。第56回日本レコード大賞「最優秀アルバム賞」を受賞した。また、同年11月から12月にかけて1981年以来33年ぶりに6都市9公演の全国ツアーも行う。同年11月19日、ムーン移籍後最初のアルバムである『VARIETY』の30周年記念盤をリリース。, 2015年(平成27年)3月、出雲市から特別功労者として表彰を受ける。市に楽曲『愛しきわが出雲』を提供するなどしたことで地域への愛着醸成に貢献した功績による受賞であった。同年5月、第6回岩谷時子賞を受賞[34]。, 2016年(平成27年)2月、嵐のニューシングル「復活LOVE」の作詞を手掛ける。作曲・編曲は山下達郎。同年4月、テレビ東京系列経済ニュース番組「ワールドビジネスサテライト」のエンディングテーマを書き下ろす。2017年3月までの1年間放送。また、この年には実家の「竹野屋旅館」の経営が自主廃業寸前にまで悪化し、地元で親族会議が毎週のように開かれる事態になり、達郎・まりや夫婦も参加していた。旅館は親族一同からの経済支援を受けて存続する運びとなり、同年8月、大掛かりな改装が開始。改装費用のほとんどを竹内が買って出ることでそれは実現し、この時点で竹内が事実上のオーナーになる。, 2017年(平成28年)7月15日には第三者の手でYouTubeに80年代の曲「PLASTIC LOVE」(プラスティック・ラブ)がアップロードされ、作品リリースの無い海外でも視聴され始める。同年11月22日には『REQUEST』の30周年記念盤をリリースしている。, 2018年(平成29年)、デビュー40周年を迎える。この年、上述した「PLASTIC LOVE」の動画再生回数が2400万回以上という驚異的な伸びを見せ、大きな話題となった[35][36]。2010年代初頭に始まったヴェイパーウェイヴが数多くサンプリングしたことで、かつて日本で大流行しながら欧米に輸出されなかったために国際的にはほぼ無名であったシティーポップなる音楽ジャンルが“少しは”海外に知られることとなり、加えて、知ったからにはと世界中どこからでもボーダーレスで簡単にアクセスできる動画共有サービスを使って熱心に掘り起こされる過去作の中から「PLASTIC LOVE」と竹内が見出され、一躍脚光を浴びることになった[36][37]。それがこのブームの本流の動きであった。往時の竹内はシティーポップの第一人者というわけではなかったが、2017年発のブームの下では係る音楽ジャンルを代表する楽曲および人物と捉えられるまでになった。火付け役となったYouTubeには数多くのシティーポップ集がアップロードされるが、「PLASTIC LOVE」と竹内まりやはその種のコンピレーションでは定番中の定番となった。, 同年10月17日には、デビュー40周年を記念してシングル「小さな願い/今を生きよう」をリリースし、11月18日には初のファンミーティングを開催している。11月21日からはデビューアルバム『BEGINNING』の40周年記念リマスター盤が発売されたことを皮切りに、RCA/RVC時代のカタログが最新リマスターとボーナストラック付きで順次発売された[38]。11月23日からデビュー40周年を記念して製作されたライブ・ドキュメンタリー映画『souvenir the movie~MARIYA TAKEUCHI Theater Live』が、期間限定で全国ロードショー。, 2019年(平成31年)3月、芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)を受賞。同月、デビュー40周年記念特番「竹内まりやMusic&Life〜40年をめぐる旅」がNHK総合で放送される。39年ぶりにNHKスタジオにて歌唱。ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ映画『ダンボ』(ティム・バートン監督)にて日本版エンディングソング『ベイビー・マイン』を歌唱[39]。同年5月、「関ジャム完全燃SHOW(テレビ朝日系列)にて竹内まりや特集がオンエア。前年公開された映画『souvenir the movie~MARIYA TAKEUCHI Theater Live』がアンコール上映される。同2019年(令和元年)9月、40周年記念アルバム『Turntable』をリリース。オリコンチャート1位を記録し、これにより「昭和・平成・令和3時代で1位を獲得した初の女性アーティスト」となると同時に、「女性最年長1位獲得アーティスト」(64歳6ヶ月)となった。10月、映画「最高の人生の見つけ方」(犬童一心監督・吉永小百合・天海祐希共演)主題歌「旅のつづき」を書き下ろし、シングル・リリースする。11月、『第61回輝く!日本レコード大賞』にて「特別賞」を受賞。12月31日にはNHK紅白歌合戦の特別企画・竹内まりや×第70回紅白「未来へつなぐいのちのメッセージ」に出演し、「いのちの歌」を歌唱した[注 14]。, 2020年(令和2年)1月1日発売の「いのちの歌」(スペシャル・エディション)が13日付オリコン週間シングルランキングで第1位獲得。64歳10か月での1位獲得は歴代最年長記録となった。これにより、「カムフラージュ」以来21年1か月ぶりの1位インターバル記録を樹立した。, 2000年(平成12年)に『TOKYO-FM&fm-osaka開局30周年記念イベント』が、日本武道館(7月11日・12日)と大阪城ホール(7月31日)にて開催され、cannaとSING LIKE TALKINGとともに竹内本人も出演し、約18年ぶりに本格的なコンサートを開催した。公演は3番目のトリとして出演。約1時間半の公演時間で14曲を歌唱した。山下達郎もバックメンバーとして参加し[注 15]、最後には二人のデュエット曲「LET IT BE ME」も披露している。この模様は『Souvenir〜Mariya Takeuchi Live』としてアルバム化された。, これ以降も、2007年(平成19年)10月13日に開催された、コブクロなどが出演した野外ライブ『風に吹かれて』で、シークレットゲストとしてサプライズ登場し、「元気を出して」を、松たか子などの出演者とともに披露し[注 16]、また、長年の音楽仲間であるセンチメンタル・シティ・ロマンスのコンサートのサプライズゲストで持ち歌を披露するなど、必ずしもライブに否定的ではなく、竹内本人も2009年(平成21年)以降のライブ活動に対して意欲を見せていた[注 17]。また、同2008年12月5日に厚木市民文化会館で行われた夫・山下達郎のコンサートで、「まりやのコンサートもこのメンバーでやる」との山下の発言があり、ライブへの本格復帰が期待されていたが、その年に実現することは無かった。その後、2010年(平成22年)8月29日にゲスト出演したラジオ番組『山下達郎のサンデー・ソングブック』と公式サイトにおいて、12月3日・4日の日本武道館と12月21日・22日の大阪城ホールで、10年ぶりの本格的ライブである『souvenir again』を行うと発表した。このコンサートのライブ音源の一部は前述した番組の2011年(平成23年)2月27日放送回で「夫婦放談番外編」として披露されている。2014年(平成26年)には、11月22日から12月21日にかけて、33年ぶりとなる全国ツアー『souvenir 2014』を全国6都市で9公演を行った。, 2018年(平成30年)には、デビュー40周年を記念して過去3度に亘って開催されたコンサートの模様を『souvenir the movie~Mariya Takeuchi Theater Live~』と題し、東映の配給で映画館上映された[40][39][41][42]。2018年11月23日公開[42]。上映時間 94分[42]。好評を博したことにより、2019年(平成31年)5月17日から2週間、全国8都市・8劇場でアンコール上映された[39]。加えて、同作品は内容などが評価され、平成30年度(第69回)芸術選奨 文部科学大臣賞(大衆芸能部門)を受賞した[39]。また、アンコール上映の際は、2012年に公開されて話題を呼んだ山下達郎の『山下達郎シアター・ライヴ PERFORMANCE 1984-2012』も同時アンコール上映された[39]。, オープニングアクト:BOX(12月3日・22日)、センチメンタル・シティ・ロマンス(12月4日・21日), 福岡、大阪、東京公演は、「TOKYO-FM/FM OSAKA/FM FUKUOKA 開局45周年記念」公演。, 出生名は 竹内 まりや (1955)。プロの音楽家としての名義は、ごく一部の例外を除き、出生名と同じである。結婚後の本名は 山下 まりや (1980 - ) であるが、公言されることはほとんど無い。公言した例として挙げられるのは、TBSラジオ『安住紳一郎の日曜天国』の2013年(平成25年)7月10日放送回にゲスト出演した際のやり取りで、家庭での様子を尋ねられる場面で、安住紳一郎から「食事は、竹内まりやさんから?」と話を持ち掛けられ、「(家族といるときは)山下まりやです」と答えている[注 18]。, アマチュア時代の名義は 竹内 マリヤ であった (? 2020/01/06. Miyabi2008, Miyabi2010)。, 「まりや」は子供の頃、当時としては極めて珍しい名前であり、芸能界に入った時も同じで変な名前だと言われた[注 5]。しかし、竹内まりやが人気のある著名人になったことで「まりや」と名付けられる子供が増え、それほど珍しくない名前になっていったといわれている[注 5]。下の世代での「まりや」の例として、竹内まりやは「山田まりや」「鈴木まりや」「西内まりや」の3名を挙げている[注 5]。なかでも山田まりやは、父親だったか母親だったかが私・竹内まりやのファンであったことから名付けられたのだと述べている[注 5]。, 2014年(平成26年)におけるワーナーミュージック・ジャパンの「竹内まりや スペシャルサイト」では、作曲の際はピアノまたはキーボードを使う[53]と言っている。しかし、実際のところ、ピアノはめったに使わないらしい[注 5]。夫・山下達郎は自宅の地下に専用の音楽室を持っていて、そこで曲作りをするが、竹内にそういったものは無く、大抵はダイニングテーブルの上でミニキーボードを使って作る[注 5]。, シングル曲「色・ホワイトブレンド」を書いたときは、まだ娘が赤ちゃんだったので、寝かしつけた後で起こさないよう洗面所辺りへ移動しては小さな音で作っていたが、すぐに目を醒ましてしまうため、行ったり来たりを繰り返していたという[注 5]。しかし、曲が書けなくなると子育てや主婦業に逃げ、子育てや主婦業で煮詰まると曲作りに逃げることができたため、上手くバランスが取れていて楽しかったと振り返る[注 5]。, ファンがもどかしく感じるくらい新作アルバムの発表が遅いのは、アルバムのプロデュースとアレンジ(編曲)を全て達郎が担当しているため、コンサートツアーやアルバム製作など自身の活動で忙しい彼の体が空いたタイミングを見計らって「そろそろこれやりたいんですけど」と言ってデモテープを渡し、1曲ずつレコーディングする都合上(しかも、途中でツアーなどが始まって中断することもある)、アルバム分の曲数が溜まるのに何年もかかるからだという[注 5]。, 「シンガーソング専業主婦」とも呼ばれる[54][15][55]ようになったのは、夫の山下達郎がそのように名付けたからで、主婦業をこなしつつ在宅のまま音楽活動を続けていたことによる。しかし竹内自身は「シンガーソング“兼業主婦”でしょ?」と笑って反論する[56][57][注 5]。竹内は在宅のままでの主婦と音楽活動の兼業によって「作家的視点が養われた」と語っている[56]。, 音楽的な原点は、60年代のニール・セダカやデル・シャノンなどの欧米ポップスの作品を、弘田三枝子や坂本九、ザ・ピーナッツなど日本人歌手が訳詞して歌っていたオールディーズである[53][27]。しかし、何と言っても人生で最も大きな影響を受けたのはビートルズであった[16]。1984年(昭和59年)発売のアルバム『VARIETY』(のちの別表記:ヴァラエティ)の収録曲でシングルカットもされた「マージービートで唄わせて」は、彼らへの想いを表したオマージュソングになっており、少女だったあの頃は話している言葉も分からないのに夢中で追いかけていたと謳っている。また、大学時代には、ジェームズ・テイラーなどのシンガーソングライター、ウェストコーストロック、ザ・バンド、ニール・ヤングなどを好んで聴いていた。, ライブをやらない理由については、基本的に「子育てや家庭を優先するため」と語っており、夫・山下達郎から制限を受けていたり、遠慮・気遣いがあってのことではないと明言している。実際、子育てが落ち着いた2000年(平成12年)以降には、「souvenir」(2000年、@東京・大阪)、「souvenir again」(2010年、@東京・大阪)、「souvenir 2014」(2014年、@東京・大阪・札幌・仙台・広島・福岡)と銘打ったライブを行っている。, とは言え、2013年(平成25年)のインタビューでは、ステージで歌うよりもスタジオで緻密に音楽作りをするほうが好きだと述べている[58]。, 1980年(昭和55年)、山下達郎とまだ出逢っていない頃(あるいは、まだ密に逢うようにはなっていない頃)の竹内は、不本意なアイドル的活動を強いられてストレスを募らせる日々を送っていた。山口百恵が引退し、松田聖子とたのきんトリオはデビューしたばかりという、この頃はわずかに生まれた隙間のようにアイドルが不在の時期で、竹内は自分と同じような境遇に置かれた歌手として杏里と越美晴(のちのコシミハル)を挙げている[注 5]。なお、歌手としての竹内まりやを高く評価し、彼女がアイドル扱いされているのを批判的に見ているファンも、当時から既にいるにはいた[注 19]。, 1979年(昭和54年)10月2日放送のフジテレビ系特別番組(スポーツバラエティ番組)『第17回 オールスター紅白大運動会』に[59]RCAレーベルの代表の一人[27]として駆り出された時は、出るからには精いっぱい頑張って走り高跳びで第2位になったものの[59][27]、帰宅して冷静になってからVTRで振り返っていると、「一日何も歌わせてもらえずに私は何をしていたんだろう」と酷く悲しい気持ちになったという[27][注 5]。また、1980年7月21日に発売される5作目のシングル曲「二人のバカンス」を歌う予定で日本テレビ系のバラエティ番組『TVジョッキー』に出演した竹内は、大口コンテストというコーナーで天突き棒を使って一般人男性の口の中に大量のところてんを押し出す役を急遽させられる[27][注 5][16]。男の子の口の中にところてんを押し込みながら、「私、何してるんだろう。」「私の人生、こんなことでいいのだろうか。」と疑問が湧き上がってきたという[27][注 5][16]。そのようなことを何度も経験していた。やや冗談めかしてではあるが、この頃の思いがトラウマになっていて、何十年経ってもバラエティ番組には出演できないと語る[17][16]。「ミニスカートとタイツで、アイススケートをする私」の撮影や、「お部屋でトーストをかじる私」のグラビア撮影とか、そういった仕事にも戸惑いばかりを抱いていた[22][23]。, 音楽界の頼れる先輩であった山下にもこの件でよく相談に乗ってもらっていた[注 5]。山下もその先に君が望むような未来は無いと言っていた[注 5]。そのようなこともあって、竹内はテレビ番組への出演を段階的に減らしていったが、踏ん切りを付けることはできないで活動し続けていたところ、いつものように出掛けようとしたある日の朝、急に涙が溢れてきて、そして声が出なくなってしまった[22][23]。喉(のど)を傷めたとも言っており[注 5][16]、とにかく入院する事態に陥ったことから、これを機に考えを切り替え、竹内は一旦芸能活動をリセットした[注 5]。そうして、結婚相手と決めた山下を支える伴侶としての自分を第一とし[15]、楽曲は提供する側に回って自分に合ったペースで手掛けてゆくことにした。つまり、ここから「シンガーソング専業主婦」へと道を切り拓いていった。, 楽曲を提供する側になった竹内にとっては、アイドル的活動を通して経験した悲喜こもごもは大きな財産になった[16]。作曲者および音楽プロデューサーとしての竹内まりやには、アイドルへの深いシンパシーとリスペクトがあり、それが数々のヒット曲をアイドル歌手に提供できる素地になっている[16]。, 第一印象は互いに良くなかったという[注 5]。山下は竹内のことを、何だかちゃらちゃらした軽薄な女子大生みたいだと思ったとのこと[注 5]。竹内は山下の無愛想な態度を冷たく感じたという[注 5]。, 二人の出逢いというのは、よく言われている1980年(昭和55年)ではなく、竹内本人も結婚したのは「出逢ってから7、8年後」だと言っており[注 5]、もし出逢いが1980年であれば結婚まで2年しか時間が無いことになる。, 仕事上の密な付き合いはRCAレーベルに所属する先輩・後輩という関係で[27]、1979年(昭和54年)の下半期か、遅くとも1980年の前期前半に始まっている。互いに話してみると第一印象とは違って、考え方がよく理解でき、フィーリングがよく合うと気付いた二人であった[注 5]。当初、竹内にとっての山下は、音楽を音楽としてやっていきたいのにやらせてもらえない自分がこれからどうしたらいいのか相談したい、そのような頼り甲斐のある先輩であった[27][注 5]。また、仕事と音楽に対する誠実さを知ることで、特別な存在へと変わっていった[注 5]。具体的には、(『不思議なピーチパイ』のレコーディングの少し後の仕事として、)アン・ルイスに提供するシングル曲「リンダ」(4月発売)を製作している時、仕事が立て込んでいたにもかかわらず、合間を縫ってひとり徹夜で多重コーラスに取り組んでくれていたのを目にした時が、気持ちの切り替わった瞬間であったという[注 5]。, フジテレビ系の音楽番組『夜のヒットスタジオ』の1980年7月28日放送回にシングル曲「二人のバカンス」で出演した竹内は、歌唱後に司会の芳村真理と井上順に詰め寄られた[60][61]。既に双方の親に報告していたし、隠す必要も無かったので、「(噂どおり、山下達郎さんと)お付き合いしています」と答え、交際宣言をした[60][61]。結婚に際して山下からのプロポーズの言葉は「結婚しようか」の一言くらいで、特別なことは無かったという。, 竹内は夫のことを表立っては「達郎」と呼んでいる[62][注 5]。ほかに、砕けた場面では「たっつぁん(達っつぁん)」と呼ぶことも多い[63][注 5]。これは、上述したアン・ルイスが「リンダ」を製作していた時に呼び始めたもので、それを気に入って竹内も使いだしたのが始まりであった[注 5]。TOKYO FM『山下達郎のサンデー・ソングブック』「納涼夫婦放談 Part2」(SSB #1401。2019年〈令和元年〉8月25日放送)で夫婦共演した際、山下は「周りに人が多いと『たっつぁん』になる」と分析してみせたが、竹内は特に法則は無いと答えた[63]。もっとも、家での呼び名は全然違っていて、それは秘密だと言う[63][注 5]。少なくとも「たっちー」ではない[63][注 5]とのこと。, 竹内の楽曲で山下が一番好きなのは「純愛ラプソディ」だという。二人とも話すのが大好きな性格なので、二人で家にいる時は音楽のことや雑多な日々の事柄などを一日中しゃべっている[27]。山下がコーヒーを飲まない人なので、山下家では大体ミルクティーを飲んでいる[注 5]。, 2013年(平成25年)のトーク番組で語ったところによれば、夫・山下達郎と娘と、ずっと3人で暮らしている[注 5]。それと、犬を1匹飼っている(2013年頃はブルドッグ)[注 5]。, 娘は、中学・高校ではブラスバンド部に入って音楽活動をしていたが、社会人になってからはあくまで趣味として楽しんでいて、それに、音楽より美術のほうが好きだという[注 5]。, 娘が小学生・中学生の頃は保護者活動も普通にやっており、山下達郎・竹内まりや夫妻と桑田佳祐・原由子夫妻が出揃う場面もあったという[注 5]。, 「竹野屋(たけのや)」は屋号で、旅館の名前は「竹野屋旅館」という。1877年(明治10年)の創業時からずっと現在の場所にある[10]。「竹内繁蔵」は竹野屋の当主が代々襲名してきた名跡で、まりやの父親は「四代目当主」として「四代目竹内繁蔵」を名乗り、竹内が高校2年生になった年から大社町町長を15年に亘って務めた人物でもある[10]。1951年(昭和26年)からは竹内の兄である長男・信夫が後を継いだが[10][64][65][9]、接客業に全く向かないこの五代目の下で旅館の質も評判も低下し、経営は傾いていった[64]。2017年(平成29年)2月には[10]、竹内の長姉の娘婿・丸尾聖治が[64]新社長に就任している[10][64][9]。ただし、前年に廃業案と売却案が取り沙汰される事態となり、親族の経済支援で何とか持ち堪えたというのが実際で[64]、特に竹内は施設改装費用のほとんどを請け負った。それによって事実上のオーナーになった竹内は、しばらくは経営に直接関わらざるを得ず、忙殺されて音楽活動に全く携われなくなっていた[64]。さらには同年10月、旅館は総支配人・藤田賢治郎[66]と宿泊支配人を外部から迎え[64][65][9]、入れ替わる形で前社長は辞任・退社した[67]。新体制が整うのを見届けて、竹内はようやく仕事に復帰することができた[64][65][9]。, 当該記事「竹内繁蔵」の「五代目」以降では竹内がそこまでして実家を支援した理由や、山下達郎と所属事務所社長・小杉理宇造の反応なども含め、詳しく解説している。, 2014年(平成26年)発売のアルバム『TRAD』のディスクジャケットの写真は、竹野屋旅館の階段で撮影したものであり、今では現場に案内版が設置されている。館内には、「縁の糸」の曲名と歌詞および「愛しきわが出雲」の歌詞を表した書(書道作品)が展示されているが、これらは母親の手になる達筆で本格的な作品である。, デビュー直後は数多くの音楽番組やその他様々なジャンルの番組に出演していたが、1981年(昭和56年)に活動を一時休止した後はメディア露出が非常に少なくなった。ただ、夫・山下達郎と異なり、テレビ番組やミュージック・ビデオでは顔を見せている。, 第1回から第10回までは制定なし。第12回 は発表なし。第32回から第34回までは演歌・歌謡曲、ポップス・ロックの2部門に分けて発表(ただし第32回に限り演歌・歌謡曲、ポップス、ロックの3部門に分けて発表した)。, 有限会社ミュージック・ハーヴェストも、山下側の企業「株式会社テンダベリーミュージック (Tenderberry Music Inc.), 姉が2人、兄が1人(5代目当主の信夫)、弟が1人、末っ子の妹が1人。まりやは第4子, 山下はライブ会場としては日本武道館を否定的に捉えているため、自身のライブで使用することはない。, 1989年(平成元年)9月10日シングルとしての「夢の続き」は再発売であるが、ミックスとカップリングを変更している。再発盤のタイトルは「夢の続き ('89 Remix)」。, WARNER MUSIC JAPAN 40th.Anniversary 〜100年 MUSIC FESTIVAL〜, souvenir the movie 〜MARIYA TAKEUCHI Theater Live〜 (Special Edition), https://www.daily.co.jp/gossip/2019/01/08/0011963784.shtml, (株)温故知新、出雲大社正門前の老舗旅館 「竹野屋旅館」のコンサルティングを開始 ~3月1日より新体制でリニューアル・オープン~, 竹内まりやと安住紳一郎 アルバム『Turntable』を語る <『安住紳一郎の日曜天国』書き起こし, r/citypop - Just recently realized that Mariya Takeuchi was an exchange student close to where I live.

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